更新日:2019/05/11(土) 20:03

島守之塔  クリックで敷地内の写真が表示されます

位置マップ(クリックすると摩文仁公園内マップが表示されます)
島守之塔1

▶ 所 在 地    沖縄県糸満市摩文仁
▶ 建立年月日    1951(昭和26)年6月22日
▶ 敷 地 面 積    ● 平方メートル
▶ 合 祀 者 数    459 柱
▶ 設 置 者    (一財)島守の会(2017(平成29)年3月 沖縄県へ譲渡)
▶ 所 有 者    沖縄県
▶ 清掃管理者    公益財団法人沖縄県平和祈念財団

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■ 碑  文
■ 沖縄県知事島田叡 沖縄県職員 戦没慰霊塔 について
この地は、沖縄戦で住民とともに南下を続けた島田知事、荒井警察部長らが摩文仁岳を最後の地と定め、随行の部下に退去・避難を命じ、この山に構築した壕で自らの生命に終止符を打ったゆかりの地である。生き残った小渡信一、徳田安全、新垣徳助、當眞嗣盛の各氏を中心に生存した県庁職員約10人が探索し、さらに金城増太郎三和村長や摩文仁区長らによって確認された。

参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E5%8F%A1
 
■ 歌  碑
@誓子 A北白川祥子 B仲宗根政善
20190413島守塔 (5)x200 20190413島守塔 (6)x200 20190413島守塔 (7)x200
 
■ 碑
 碑@島守の塔 正面石柱   鎮魂碑A島守の塔 正面石柱裏面
20190413島守塔 (1)x230T 20190413島守塔 (9)x230裏面
鎮魂碑@裏面
(第三高校野球部有志)
 表面   碑A島田叡知事座右の銘
 「断而敢行鬼神避之」
20190413島守塔 (33)x230 20190413島守塔 (10)x200 20190413島守塔 (11)x200
■全体景観
20190413島守塔 (35)x350 20190413島守塔 (37)x3500
20190413島守塔 (29) 20190413島守塔 (20)
島田知事と新井警察部長が避難したというガマ
20190413島守塔 (22)
■祀られた戦没者刻銘
20190413島守塔 (12)x3000

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■ 慰霊祭 
2018(平成30)年11月29日 兵庫県による慰霊祭 
20181129島守兵庫県慰霊祭 (2)x250

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■ 平和祈念こいのぼりまつり 

2019(平成31)年4月28日、全都道府県の慰霊塔・碑にこいのぼりを掲揚しました(5月5日まで)
▶これは 戦没者がふるさとに残した父や母 子のことを案じながら亡くなられたのではないかとの思いから 戦没者の慰霊と世界中の子どもたちの健康を願って 各都道府県や遺族会の全面的協力のもと 送っていただいたこいのぼりを沖縄県在住各都道府県出身者と地域の子供たちが力を合わせて掲揚したものです
▶205年(平成17)年から毎年行っています

2019こいのぼり島守 (4)x230 2019こいのぼり島守 (6)x230 2019こいのぼり島守 (10)x230

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■ その他情報
  ▶ 敷地内花木
@兵庫県県花のじぎく(2019/05/06) Aのじぎくと糸トンボ(2019/05/06)
20190506島守ノジギクツボミ02x200 20190506島守糸トンボ01x200
  ▶ 参拝・献花
  ▶ 千羽鶴奉納
  ▶ 「Wikipedia」による島田叡知事

下記URLから島田叡知事のWikipediaに入ることができますので最新版の詳細はご確認ください
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 ▼Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E5%8F%A1&oldid=72079934

島田叡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から前段を抜粋
2019年3月21日 (木) 13:35; 曾禰越後守 (会話 | 投稿記録) による版(日時は個人設定で未設定ならUTC)
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日本の旗 日本の政治家
島田 叡
しまだ あきら
Akira Shimada.jpg
生年月日 1901年12月25日
出生地 日本の旗 日本 兵庫県八部郡須磨村(現神戸市須磨区)
没年月日 1945年6月26日(43歳没)?
死没地 日本の旗 日本 沖縄県?
出身校 東京帝国大学法学部卒業
称号 内務大臣賞詞
顕功賞
沖縄県の旗 官選第23代 沖縄県知事
在任期間 1945年1月12日 - 1945年6月27日?
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島田 叡(しまだ あきら、1901年(明治34年)12月25日 – 1945年(昭和20年)6月26日?)は、沖縄県最後の官選知事。兵庫県神戸市須磨区出身。座右の銘は、「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。
目次
1 来歴
1.1 沖縄県知事の発令
1.1.1 最期
2 沖縄県民による評価
3 沖縄県知事を引き受けた背景
4 大田海軍少将との関係
5 関連作品
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
8 外部リンク
来歴
1901年(明治34年)、兵庫県八部郡須磨村(現神戸市須磨区)の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部へ入学。中学・高校・大学と、野球に熱中し、旧制神戸二中時代に第1回全国中等学校優勝野球大会に出場。東大時代は野球部のスター選手(外野手)として、また、ラグビー部とも掛け持ちするなど、スポーツマンであった。この時、学生野球に参加した経歴から、野球殿堂博物館(東京ドーム内)に建立された戦没野球人モニュメントには島田の名前が刻まれている。
東大卒業後、1925年(大正14年)に内務省に入省する。主に警察畑を歩み、1945年1月の時点では大阪府内務部長を務めていた。
沖縄県知事の発令
1945年(昭和20年)1月10日、沖縄県知事の打診を受け、即受諾した。各官庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張していた前任者の泉守紀[注釈 1]には、出張中にも係わらず、香川県知事の辞令が出された。沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任者の人選は難航していた。沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めたが、島田は「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ。
1945年1月31日、沖縄県に着任。沖縄駐留の第32軍の参謀長の長勇長と島田は上海事変のときから懇意にしており[1]、長は泉前知事のときの不遜な態度とはうって島田には変わり礼を尽くして、島田の着任早々に情報主任薬丸兼教参謀を連れて自ら沖縄県庁を訪ねた。そこで長は島田に「ウルシー島を進撃した米機動部隊は、沖縄方面に向かっている。一週間後の、2月25日頃には、沖縄までやってくる」と詳細な軍事情勢を伝え、「米軍が沖縄に上陸して、約6か月間は何としてでも頑張る。そのうち米軍はへとへとになって引き揚げるだろう。その間の住民の食糧6か月分を、県において確保してほしい」と要請した[2]。長の要請を受けた島田は、同年2月下旬には台湾へ飛び、交渉の末、蓬莱米3000石分の確保に成功。翌3月に、蓬莱米は那覇に搬入された[注釈 2]。島田はそのほかにも、大蔵省専売局の出張所に自ら出向き、厳しく統制されていた酒や煙草の特別放出を指示するなど少しでも沖縄県民の心をなごやかにするような努力をおこなった[1]。こうした島田の姿勢により、県民は知事に対し、深い信頼の念を抱くようになった。。
島田は泉前知事時代に悪化していた軍との関係改善に努めた。沖縄戦前は沖縄県と第32軍でよく宴会を開いて、下戸であった第32軍司令官牛島満中将も宴会には積極的に参加し、共に童謡を歌い踊るなど県と軍の関係は改善された[3]。島田は軍の協力も得ながら前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった。
同年3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始めた。以後、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を移転させながら指揮を執った。軍部とは密接な連携を保ちながらも、およそ横柄なところのない人物で、女子職員が井戸や川から水を汲み洗顔を勧めると「命がけの水汲みの苦労を思えば、あだやおろそかに使えないよ」と、ほんの少ししか水を使わなかったという[4]。
陸軍守備隊の首里撤退に際して、島田は「南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになる。」と反対の意思を示していた。同年5月末の軍団長会議に同席した島田は、撤退の方針を知らされ、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である。」と憤慨。そのとき牛島満司令官は、「第32軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ。」と説いて会議を締め括ったという[5]。牛島は戦闘に巻き込まれる住民にせめて物資を支給しようと、知念半島に独立混成第44旅団が備蓄していた食糧・物資を避難民に開放する命令を下していたが、アメリカ軍が急進撃している中で軍や県にこれを実現する術はなく十分に避難民に軍の物資が行き渡ることはなかった[6]。
その後島田と荒井退造・沖縄県警察部長は6月7日前後に牛島のもとに訪れている。アメリカ軍上陸後は、住民保護の件で対立することの多かった牛島ら第32軍司令部と島田・荒井らの沖縄の行政の責任者であったが、牛島は憔悴しきっていた島田らに「貴方らは文官だからここで死ぬことはない」という言葉をかけている[3]。
最期
1945年(昭和20年)6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい。」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた。同年6月26日、島田は荒井とともに摩文仁(糸満市)の壕を出たきり消息を絶ち、今日まで遺体は発見されていない。
元兵士による「(島田は)壕で自決した」との証言もある。また、1971年(昭和46年)9月1日付の沖縄タイムスに掲載された記事によれば、機関銃隊の兵長だった山本初雄が、「私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。日没時、食糧さがしに海岸沿いを糸満方向へ約二百メートル行った。海のすぐ近くにごう(壕)があり地方(民間)人が三人いて“知事さんがはいっておられますよ”という。奥行き六メートルくらいの横穴で、頭を奥にし、からだの左側を下にしておられた。“知事さんだそうですね”とたずねると“私は島田知事です”と胸から名刺を出した。“負傷しているんですか”ときくと、“足をやられました”といわれた。知事さんが“兵隊さん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。何も食べ物がないときですよ。えらいと思います。二つもらって“元気にいて下さい”といって自分のごうに戻ったのを忘れません。その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って行った。ところが、先日と同じ地方人が“知事さんはなくなりましたよ”という。ごうにはいるとヒザのそばに短銃があった。右手から落ちたような感じで“ああ自決したんだなあ”と思った。合掌して知事さんのごうを出ました。知事は白の半そでシャツ、ズボンはしもふりかと思ったが軍隊ズボンではなかった。髪、ヒゲは大分のびていた」と証言をした[注釈 3]。最後の壕は、轟の壕で、戦前最後の沖縄県庁という言い方もされている。
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